May 13th, 2012
May 12th, 2012
cute-girl525:

This is our other cat “Kat” having a nap with our budgie “Sunny”

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This is our other cat “Kat” having a nap with our budgie “Sunny”

(via furoneko)

(Source: suppin, via furoneko)

(Source: suppin, via furoneko)

May 11th, 2012

(Source: decrepito, via exposition)

日本で初めてモンブランを売り出したのは、東京・自由が丘のその名も「モンブラン」という店である。

 創業は1933(昭和8)年。迫田千万億(さこた・ちまお)が現在の東急東横線の学芸大学駅近くに店を開いたのが始まりだ。戦後すぐの1945(昭和20)年10月、焼け野原となった自由が丘駅前広場にほど近い現在の場所に移転した。

 迫田は、1903(明治36)年に鹿児島県屋久島で生まれた。鹿児島市内の菓子屋に勤めたのち、1924(大正13)年に上京。神楽坂にあった和洋菓子と喫茶の店「紅谷」(第2次大戦により閉店)に入った。

 ここでちょっと日本における洋菓子の歴史をみてみよう。

 フランス菓子店「ブール・ミッシュ」を1973(昭和48)年に創業した吉田菊次郎が書いた『西洋菓子彷徨始末』(1994年刊、朝文社)によると、洋菓子黎明期の人脈はだいたい日本郵船系と風月堂(「風」の字は正式には「几」に「百」)系に分かれるという。

 日本郵船は1885(明治18)年に創業し、翌年から次々と航路を開設。1896(明治29)年には、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアに航路を開いた。船内に設けられたベーカー部にはいち早く海外のパンや洋菓子の技術が伝わり、職人たちにとっては格好の修業の場になった。

 一方、風月堂は 宝暦年間(1751~1764)に、小倉吉右衛門が大坂の難波から江戸に移り、「大坂屋」という名で菓子商を営んだのが始まりだ。2代目大住喜右衛門の頃、松平定信の引き立てを得て、「風月堂清白」の5字を賜る。1812(文化9)年に屋号を「風月堂」に改め、京橋南伝馬町で営業を始める。5代目 吉右衛門の時期からビスケットなどの洋菓子の製造に着手。1872(明治5)年に誕生したのが両国の米津風月堂(現在の東京風月堂)だ。

 さらに両国の風月堂から、総本店の承認を得て、1886(明治19)年に長野風月堂、1894(明治27)年に甲府風月堂、1897(明治30)年に神戸風月堂と、現在も続く店が次々と暖簾分けされた。また1905(明治38)年には、本家から分家して上野風月堂が創業。明治時代に和洋菓子の一大勢力を築きあげた。

 モンブランの創業者である迫田千万億が修業した紅谷は、両国の米津風月堂の流れを汲んだ店であった。

 ちなみにフランス菓子店「コロンバン」を1924(大正13)年に創業した門倉国輝も、迫田とは重なってはいないが、米津風月堂で修業したのち紅谷で数年ほど働いている。

 1899(明治32)年には、のちに森永製菓となる森永西洋菓子製造所が設立。明治時代後半になると、国産のバターや小麦粉、砂糖が手に入りやすくなり、洋菓子業界はにわかに活気づく。

 大正時代に入ると、チューインガムが初めてアメリカから輸入され、キャンディやビスケット、チョコレートといった工場生産による洋菓子が一般にまで行き渡るようになった。1922(大正11)年には、1910(明治43)年創業の不二家がショートケーキを発売。

 次々と新しい材料や技術が導入され、目新しい洋菓子がデビューする。そんなにぎやかな時代の空気を吸いながら、迫田は修業を積み、自分の店を開いたのだった。

 「モンブラン」という店名は、登山が好きだった迫田が渡欧した際、秀峰モンブランを見て感動したことからつけられた。そして、フランス菓子のモンブランをヒントに、店の看板メニューを作ろうと、日本独自のモンブランを開発した。

 「モンブラン」のモンブランの特徴は、なんといっても土台にメレンゲでなくカステラを使用していることだ。おそらくこれは、当時バターケーキが流行していたこと、不二家が売り出したショートケーキが、本来はビスケットに苺を挟んだケーキだったのをスポンジに変えてヒットしたことなどが影響しているのだろう。

 土台のカステラをくり抜いたところへ、カスタードクリームと生クリームをたっぷり絞り、栗をまるごと一粒押し込む。その上に、バタークリームで縁取りをし、栗のペーストを円を描くように絞りだす。この栗のペーストもポイントで、迫田はフランス産のマロンペーストではなく、日本人になじみの深い甘露煮を使った。

 さらに、トップには焼いた白いメレンゲをちょこんと乗せる。このメレンゲは、アルプスの山々に残る万年雪をイメージした。

 こうして出来上がったのが、大ぶりの日本流モンブランだった。

 この独自のモンブランを発売した時期は、創業まもない頃とも、戦後、自由が丘に移って以後とも言われている。だが、いずれにせよ一般に知られるようになったのは戦後のことだろう。なぜなら、創業後しばらく経ってから、終戦に至る1945(昭和20)年まではどんどん材料が手に入りにくくなっていった時期だからだ。

 戦後になると、「モンブラン」は郊外の店にもかかわらず、一躍評判の店となっていく。

 大きくて美味しい、というのが人気の秘密だった。そして、「モンブラン」の名が広まると同時に、黄色い日本流モンブランの知名度もどんどん上がっていった。

 迫田は、「モンブラン」という屋号は商標登録したものの、独自に開発した黄色いモンブランは商標登録しなかった。その意図は、日本洋菓子界の発展を願い、広く一般にこの洋菓子の銘柄を開放することを選んだからだと言われている。そのため、黄色いモンブランはあらゆる洋菓子店で真似て作られるようになり、結果的に「モンブランと言えば黄色いモンブラン」と認識されるまでになったのだ。

 黄色いモンブランがスタンダードだった日本で、本場の茶色いモンブランが注目されるようになるのは1984(昭和59)年。

 その年、百貨店のプランタン銀座に「アンジェリーナ」の日本第1号店がオープンした。「アンジェリーナ」と言えば、パリで初めてモンブランを売り出したと伝えられているあの店である。そこで茶色いモンブランが供され、脚光を浴びる。70年代頃から本場のモンブランを食べさせるフレンチレストランはあったが、広く知られるようになったのは「アンジェリーナ」以降のことだ。

 そして、現在はフランス産のマロンペーストを使ったものから、和栗のペーストへと流行が移り変わっている。おまけに紫いものモンブランなど、もはや栗ですらない菓子にも名前が使われている。そうした広がりも、本はと言えば日本人が慣れ親しんできた栗という食材を使い、日本人好みの食感と味に仕立てた黄色いモンブランが国民的人気を得たことがすべての始まりだった。

 今も発売当初と変わらない「モンブラン」の黄色いモンブランを食べる。

 昨今のこじゃれたケーキに比べると、ゆうに2倍はある大きさ。フォークをざっくりと突き刺す。大きめの一片を口に放り込むと、いろんなクリームの味が口のなかで混ざり合う。甘さ控えめなんて言葉がない時代の、しっかりとした甘さ。ふわっとしたカステラの食感。

 味を言葉で表現するのは難しいが、出し惜しみをしていない感じがいい。陰りのないおいしさと言えばいいんだろうか。パティスリーでなくて、洋菓子店の味だ。

 茶色いモンブランも好きだけれど、これはこれで捨てがたい。日本が生んだあざやかな黄色のモンブラン。ぜひとも残したい昭和の味として、遺産認定したいくらいだ。